JR市ヶ谷駅と外堀を挟んだ丘の上に鎮座する市谷亀岡八幡宮は、太田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して、江戸城の西の守りとして創建した由緒ある神社である。鎌倉の「鶴」に対してこちらは「亀」としたという。600年近い歴史を誇るわけだが、創建当時は今の市ヶ谷駅のそば、江戸城の外堀内にあった。それが江戸城外堀工事に伴い、現在地に移動させられた。
移った場所は弘法大師が建てたというこれまたきわめて古い稲荷社が建っていた丘の上だった。それが現在地で、今も境内に茶の木稲荷という立派な稲荷が残る。
太田道灌という江戸城の礎を築いた人物ゆかりで、しかも武神である八幡神を祀ることから、神社は徳川幕府にも丁重に扱われ、江戸時代は社前に芝居小屋が出たり、勧進相撲が行われたりと大層賑わったという。歌川広重の名所江戸百景にも描かれる。
周りの街の景色は変わっただろうが、神社入口の石段は江戸時代から変わっていないようだ。現代ではありえないような急な石段には、近年になって手すりがつけられるほど。あまりに急でお年寄りなどは危ない。ほぼてっぺん近くに大きな銅製の鳥居があり、「八幡宮」と書かれているが、「八」の字が鳩が向かい合ったデザインになっている。書いたのは大名の酒井家の殿様だという。
そこから少し登るとようやく平坦な境内に出る。続いて社殿前に進む。と、ここまでは由緒ある神社であるとはいえ、まあまあ見たことのあるような神社の参拝ルートだ。
ところがである。
ここから先、様子は急変するのだ。社殿に参拝し、ふと右側を見ると看板が立ち「裏参道」との矢印があるではないか。足元にも、玉砂利の中に石畳が敷いてある。進んでみよう。
社殿の右側に細い道が続いていく。社殿が途切れるあたりで道は一段細くなり、突き当たった向こう側は、やや土地が高くなった駐車場のようだ。右に折れて進むと、左の駐車場と右側の大手予備校の敷地の間を縫って道が延びていく。きちんとアスファルト舗装され、幅も2メートルはあるが、その途中左側の地面に驚くべきものが立っている。
アジサイと思われる株脇の石柱には「陸軍用地」と刻んであるではないか。すぐ奥にももう一本、同様の石柱が立つ。脊柱の位置で向こう側の駐車場敷地がややクランクしている。
しばらく進んだ先、駐車場と別の敷地との3つの境界にも石が立ち、そこでは「陸軍省所轄地」と書いてある。
実はこの道の向こう側、駐車場のような場所は、戦前は陸軍士官学校が長く置かれ、戦争末期には陸軍省や参謀本部も置かれていた。戦後は自衛隊の駐屯地となり、今は防衛省の敷地の一部だ。
つまり戦前に建てられた軍用地境界の石柱が、そのまま残っているのだ。
戦争の時代のなごりが、こんな形で、わたしたちのそばにある。
駐車場が途切れた先の敷地はマンションが建っているようにも見えるが、ここはお寺の敷地だ。お寺が境内にマンションを建てているのだ。見ると塀の下の石は、明らかに墓石を転用した石積みで、江戸時代の年号や戒名が読み取れる。
その付近はなぜか道の真ん中にけっこうな太さの木が立ち、通行を邪魔する。道幅自体は2メートル以上あるのだが、通行幅は80センチほどしかない。
やがて道は突き当たり、右に短い階段を下る。降りきると車も通れる広い道が左に通じ、出たところは江戸時代からある左内坂という道だ。
しかしなぜここが裏参道なのか?
実は予備校の建つ敷地は、江戸時代には東円寺という寺があった。この寺は別当寺といい、市谷亀岡八幡宮を管理する立場の寺だった。江戸時代はすべての神社に別当寺を設け、僧侶が一元的に宗教界を支配していたのだ。
ところが神道第一の明治政府ができ、神仏は分離せよ、とのお触れが出る。江戸時代は寺も神社も一体で問題はなかったのだが、明治以降は敷地明確に分けなければならず、各地の社寺は苦労する。仏教を迫害する廃仏毀釈の風潮も強まり、東円寺は廃寺になってしまった。その際、亀岡八幡への裏参道を確保するためにこの細道が神社側に残されたのだろう。
陸軍と廃仏毀釈。近代史の記憶を残す細道であった。
■細道を実際に散歩した動画です。
細道とは
ここで紹介する細道は、独断で選んだものだが、おおまかな定義は頭にある。
まず、表通りから見えにくく、歩く楽しみと驚きのある狭い道が条件。
自動車は通行できないが、公道もしくは近隣の生活道路として機能していること。
歴史が古く、曲がりくねってアップダウンがあればなおよい。