導入事例

“無限の選択肢”は我々を幸せにするか? – 選択の科学が教えてくれること

Eye

「選択の科学」の著者であるシーナ・アイアンガーが、我々にとって選択することの意味が、文化的背景によって異なる事を研究事例をもとに解説します。果たして「無限の選択肢の存在」は我々を幸せにしてくれるのでしょうか?(※この講演は2010年に行われたものです。)

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今日は18分間みなさんを世界に案内します。私の活動ベースは米国ですが、まずは遠く離れた京都での話から始めます。

日本人家庭に下宿し、学位論文の調査をしていました。15年前のことです。カルチャーショックや誤解を経験するとは思っていましたが、予想もしない形で訪れました。

日本到着の1日目、レストランに入り“砂糖入り”の緑茶をオーダー。ウェイターが一瞬戸惑い言いました。「緑茶に砂糖は入れません。」「その習慣は知っていますが、甘い緑茶が好きなんです。」前よりも礼儀正しい口調で同じことを言われました。「緑茶には…砂糖を入れませんので・・・」「日本人が無糖で飲むのは十分存じていますが、わたくしは砂糖を入れるんです。」

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私がしつこいので、彼は困って店長のもとへ。すると間もなく、彼らは長い話し合いをし、最終的に店長が謝りに来ました。「あいにく、砂糖がございません・・・」私好みの緑茶がないので、コーヒーを頼みました。すぐさまコーヒーが運ばれ、そこで見たのは2袋の砂糖!私の注文、甘い緑茶が通らなかった原因は、単純な誤解ではありません。

選択に対する双方の根本的な考え方の違いです。米国人の考え方では、お客さんが好みに基づいた分別ある要求をする限り、叶えてもらう権利があります。バーガーキング曰く、「自己流で召し上がれ。」スタバ曰く、「幸せは選択肢にある。」でも、日本人の考えでは、無知な人を護るのは、我らの務め。

この場合、無知なガイジンを誤った選択から護ること。私好みの緑茶は、文化的基準に不適切。私の面子を保とうと彼らは努めました。反して、米国人は選択術の頂点を極めていると考えがち。すべての人間は、先天的に選択肢を求めるものだと米国人は思っています。残念ながらそれは思い込みであり、異なる国や文化では当てはまらないこともあります。

米国においてですら時には当てはまりません。これらの思い込みと、それに伴う問題について話します。みなさんもご自分の思い込みや、それが形成された過程を一緒に考えてみてください。1つめの思い込み、「選択が自分に影響をもたらすなら、自分が選択するべきだ。己の優先事項や利益を最大限反映させるには、自ら選択するしかない。」成功には不可欠です。米国では、第一の選択権は個人にあります。自分で選択するのが当たり前。人に左右されず信念を守る。自分に正直に生きる。

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でも、この選択方法が万人に有利と言えるでしょうか。マーク・リッパーと共にこの疑問を解く調査をしました。このリサーチでサンフランシスコの日本人街に行き、7~9歳の白人系とアジア系米国人を研究所に呼び、子供を3グループに分けました。第1グループにスミスを紹介し、6つの文字並べ替えパズルを見せました。子供は好きなパズルを選択。答えを書くマーカーペンまで選択できます。第2グループが同じ部屋で同じパズルを見せられます。でも今回はスミスがどのパズルをするか、どのマーカーを使うかを指示。第3グループは、母親が決めたパズルとマーカーを使うよう指示されます。

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実際には、スミスまたは母親に指示を受けたとは言え、作業はまったく同じ。第1グループだけは選択の自由がありました。この手順で3グループに同じ作業を与え、成果を比較しやすいようにアレンジしました。小さな差を設けただけですが、子供の成果に目を見張る差がでました。

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白人系米国人は、自分でパズルを選んだ場合、2.5倍もの量を解きました。このデータは、スミスや母親が決めた時との比較です。誰が選ぶかには関係なく、他人から命令されると能力が落ちました。母親が決めたと言うと、露骨に恥ずかしがる子もいました。メアリーという子が言いました。「なんでママに聞くわけ?」

それと反対に、アジア系米国人の子供は、母親が選んだ時最もよく出来ました。2番目が自分で選択した時。最下がスミスが選んだ時でした。なつみという子は、別れ際スミスに駆け寄り、ぴったりくっついて言いました。「ママの言う通りにしたって、ママに伝えてくれる?」

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二世である子供は、選択において移民である両親から強い影響を受けていました。彼らにとって選択とは、個性の明示や主張の手段だけでなく、信用し尊敬する人たちに選択をゆだねることで、社会や調和を築く手段でもあります。“自分に正直に”という考えを持つとすれば、おそらく彼らの“自己”は、個人ではなく集団的なものでしょう。

大切な人を喜ばせることは、自分自身の望みを満たすことに匹敵する。言葉を変えれば、個人の選択傾向は、特定の人の望みによって形成されている。自分が下す決断が最も正しいという思い込みが成り立つのは、自己が明らかに他者から隔てられているときのみ。それに反して、何名かの選択と成果が絡み合っている場合、共同体として選択することで、互いの達成感が高まることがあります。逆に、個人の選択に徹すれば、互いの能力や関係まで損なう結果になりかねません。

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されど、これがアメリカの模範。相互依存をほとんど認めず、人間の不完全性に対する認識に欠けています。選択は私的なもので、自ら定める行為だと見なされる。このような模範の中で育った人なら刺激を感じるでしょう。でも、誰もがプレッシャーの中、一人で選択しながら成長すると思うのは間違いです。

米国人が持つ2つ目の思い込み、「選択肢が多ければ多いほど、最高の決断をする。」ウォールマートには10万の品数。アマゾンには2700万冊の本。出会いサイト、Match.comでは、現在1500万人の登録者。それゃ最高のパートナーが見つかるでしょう。

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東ヨーロッパを例に、この思い込みをテストしましょう。インタビューを行いました。共産主義から、民主的かつ資本主義への移行を経験した人を集めて話を聞きました。興味深い事実は、インタビュー中ではなく、単なるもてなしの場で発見しました。

参加者がインタビューに現れたとき、飲み物を勧めました。コーラやスプライトなど、全部で7種類のソーダ。最初のインタビューはロシアで行いました。参加者の一人が言ったことに不意を突かれました。「どれでもいいです。結局どれも炭酸飲料ですから。」

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このコメントに衝撃を受け、全員に7種のソーダを勧め始めました。選択肢はいくつかと、皆に尋ねました。彼らは7種のソーダを、7つの選択肢ではなく1つのものとして見ていました。果汁ジュースと水を7種のソーダに加えたら、選択肢は3つと言いました。果汁ジュースと水とソーダ。

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これに比べ、米国人の多くはソーダのフレーバーだけでなく、ブランドにもとことんこだわります。調査結果が示すように、消費者はコーラとペプシを、実際には区別できません。もちろん、会場の私たちはコーラのほうがよいと分かってる。

他国に比べても、現代の米国は、選択肢や広告で飽和しています。自ら選択した商品は、自らの存在を表しているようなもの。“多いほどベター”という思い込みを加えると、細部にこだわり、全ての選択は重要 ― そんなグループが成立します。

でも、東欧人にしてみれば、突然店頭に並んだ数々の商品は圧倒的。泳げないと反論する間もなく、選択の海に投げこまれたようなもの。選択という言葉で何を連想するか、ワルシャワ出身のグレゴアさんに尋ねました。「私には恐怖です。ジレンマを抱いています。選択するのに慣れてませんから。」キエフ出身のボーディンさんは、新しい消費者市場に対しこんな意見を述べました。「限度を超えている。こんなに多くの商品は必要ない。」

ワルシャワ調査局の社会学者はこう説明しました。「年配の世代は、何もない社会から選択の社会に飛び込びました。彼らはどう対応していいのか、学ぶ機会がなかったのです。」若いポーランド人、トーマス曰く、「20種類のガムなど必要ない。選択肢は要らないという意味ではないが、見せかけの選択肢が多いと思う。」

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実際に多くの選択肢には、たいした差はありません。選択の価値は、数ある中から違いを見出す、我々の能力に左右されます。米国人は一生涯を通して、違いを見出す訓練をしています。幼い頃から訓練してますから、先天的に持つ能力だと米国人は思っています。

人間は皆、選択に対し基本的なニーズや欲望を持っていますが、誰もが同じ環境または度合いで選択をとらえる訳ではありません。複数の選択肢に違いを見出せない、比較するには選択肢が多すぎる、そんな時選択という行為は、複雑でストレスの原因になります。よりよい選択をするどころか、困惑してしまいます。

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時には恐れすら感じます。選択が、好機をもたらすどころか、強要され、縛られます。選択が象徴するものは、開放ではなく、無意味でくだらない抑圧。言い換えると、心の準備ができてない人に選択を強要すれば、米国人がイメージする、選択のあらゆる要素が、まったく逆のものに変化し得るのです。

増え続ける選択肢にプレッシャーを感じているのは、他国の人だけではありません。米国人だって、実際に選択肢を多く持つよりも、“無数の選択”という理論を語るほうが魅力的、そう気づき始めています。人間は皆、身体的、精神的、感情的な限界があり、何から何まで選択するのは不可能。一生涯で行う選択の数は莫大です。私の研究結果が示すように、10以上の選択肢を与えると人間の決断力は鈍ります。健康保険であれ、投資であれ、その他の重要な物事でもそうです。それでも多くの人は、自分ですべて選択するべきだ、さらなる選択肢を探すべきだと言う。これが最も問題のある、3つ目の思い込みと関係します。

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「選択肢を前に、決して背をむけてはならない。」これを試すべく、米国に話を戻し、その後フランスに移りましょう。シカゴの郊外で、若い夫婦、スーザンとダニエルに一人目の子が誕生しようとしていました。赤ちゃんの名前も決めました。祖母の名をとり、バーバラ。妊娠7ヶ月のある夜、陣痛が始まり、救急病院に急ぎました。帝王切開で生まれた娘のバーバラは、脳無酸素症でした。脳内の酸素不足です。自分では呼吸ができず、人工呼吸器を装着。

2日が経ち、ドクターはこの夫妻に選択肢を与えました。生命維持装置を外すべきか。この場合、娘は数時間で亡くなります。もしくは延命処置を続けるか。この場合も、数日で亡くなる可能性があります。生き延びたとしても、一生植物状態のまま。歩くことも、話すことも、人との交流も不可能。この夫婦はどうしたでしょう?一般的な親ならどうするでしょう?

二人の研究者と共にリサーチを行い、米国人とフランス人の親をインタビューしました。彼らは皆、同じ悲劇で苦しんだ人たち。どのケースも生命維持装置は外され、彼らの赤ちゃんは亡くなりました。でも、1つ大きな差がありました。フランスでは、生命維持装置を外すべきか、また、その時期を決めるのは医師。米国では、最終決断を下すのは親。私たちは考えました。わが子の喪失と向き合う上で、この事実は影響を及ぼすのか?

影響していました。1年経っても、米国人の親は否定的な感情を表す傾向がありました。対して、フランス人の親はこんなことを言いました。「息子との時間は僅かだったけど、たくさんのことを教えてくれた。新しい人生観を与えてくれた。」

米国人の親は、こんなことを言いました。「もし他の選択をしていたら?」別の親の不満。「ドクターの意図的な拷問としか思えない。なぜあんな事を私にさせるの?」別の親の言葉。「死刑執行に加担した。そんな心境です。」

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でも米国人の親は、ドクターが決断したほうが良かったかと尋ねられると、全員ノーと答えました。彼らには、その選択を他者に委ねるなど考えられなかった。自分で選んだ結果、罪悪感や怒りに苛まれたとしてもです。多くの人は、うつ病と診断されていました。

なぜ彼らは選択放棄を、熟思できなかったのか?選択を放棄することは、今まで教わってきたことや、選択が持つ目的や、選択が持つ力への信念に反するからです。

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ジョーン・ディディオンのエッセイ、「60年代の過ぎた朝」から引用します。「人は生きるために、物語に意味づけをする。現実を分析し、多数の選択肢から最も有効なものを選ぶ。心に浮かぶ断片的な回想イメージを、物語の筋書きにこじつけ、刻々と変わる情景を意識的に静止させながら、我々は生きている。」

米国人が語る信念、アメリカンドリームに基づいた、限りない選択の物語。この物語は。実に多くを保証します。自由や幸福、そして成功。揺ぎない世界を築き、語りかけます。“何だって手に入れられる”。素晴しい物語です。信念を貫きたいのも理解できます。でも、注意深く見てみると落とし穴が見えてきます。この物語が色んな形で、語ることができると気づき始めます。米国人は何度も、米国の選択観を広めようとしました。オープンな心と知性をもって。受け入れられるものだと信じて。

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しかし、歴史書や新聞で見られるように、そううまくは行きません。刻々と変わる情景、物語を通して、理解し、理由付ける行いは、ところ変わればその姿を変えます。万人のニーズにかなう物語は存在しません。また、米国人も長年選択を左右してきた自らの物語に、新しい見方を取り込むことで恩恵を受けられます。

ロバート・フロストの言葉、「詩は翻訳の過程で失われた。」この言葉が示唆するのは、どんなに美しく、感動的で、新しい見解をもたらす詩であろうが、他の言語を話す人には伝わらない、ということ。

反して、ヨシフ・ブロツキー曰く、「詩は、翻訳の過程で向上したのだ。」翻訳とは、創造的で、影響力のある行為だと示唆しています。選択に関して言えば、多くの物語の翻訳物に関わることで、失うものよりも得るものが多いのです。物語を別のものに取り替えるのではなく、既存する色んなバージョンや、今後書かれていくバージョンから、学び楽しむことができるのです。どこで生まれようが、物語がなんであれ、選択が持つ幅広い可能性や、数多くの意味に、心を開ける責任が我々にはあります。

この考えが、モラル相対主義を麻痺させることはありません。むしろ、いつ、どのように行動すべきか教えてくれます。選択がもつ可能性に、気づかせてくれます。希望を吹き込み、保証はあっても必ずしも実現しない、自由の獲得へと近づきます。たとえ翻訳を通してでも、他者との交流を学べば、選択がいかに奇妙で、複雑で、絶対的な美しさを持つか分かるはずです。

ありがとうございます。

(会場拍手)

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