雑談

設定、好き。

 

ひさしぶりに、ゴールデンウィークに秋田へ帰省すると、
秋田駅の、おみやげ売り場に、なまはげが二匹。

いや、なまはげの設定のおっさんが二人。

おみやげ売り場を練り歩き、子供をトっ捕まえて

ギャッ!と
ビビらせ、泣かせたうえで

「泣く子は、いねがぁ?」

とのこと。

パラドゥン?

さあ、さあ、お立合い。
なまはげの設定のおっさんが二人。

ぐんぐんエスカレーターさえ駆使して縦横無尽に、
子供をトっ構えては、

ギャッ!と
ビビらせ、泣かせたうえで

「泣く子は、いねがぁ?」

もう、夢中である。
そう、「なまはげ」である自分に夢中なのである。

なまはげの御面の中で、キャッキャしているのが透けて見えるわけである。
別に、それは悪いわけではない。
むしろ、子供たちにとっては、「THE AKITA」を体感できたわけで
なまはげ。いや、なまはげの設定のおっさん二人に感謝する。

一緒に、写真も撮った。
いや、撮り損ねた。
そこは、どうでもいい。

そんなこんなで、想ったのは、世の中は、
「設定」であふれているということ。

僕自身、東京では、「東京で働く人」という設定で生きている。
「それでさあ」
「頼んでた資料フィックスした?」
「この企画の切り口はMECEになってないじゃないか!」

つって。

渋谷246の喫茶店。
ココアに、生クリームのせて、それをストローでシュシュりながら、
パワーポイントで企画書つくったりなんかして。
「東京で働く人」という設定で生きている。

田舎者なのに。

だのに、帰省途中。
秋田新幹線で、阿武隈川を超えるあたりから
秋田県民に変態してきて、

大曲あたりでは、完全に「秋田生まれのボクちゃん」という設定に戻る。

そして、秋田駅の改札をくぐり、母親に会うと
今度は、「わがまま次男の俺」という設定になる。

そんなとき、息子に「お父さん、3DSやっていい?」
と質問されると「ダメだ!秋田きたときぐらいゲームやめなさい」と
「いつもは甘いけど、言うときは言う父親」という設定になる。

気が付くと、その傍らで
嫁さんは「笑顔100点の嫁」の設定で、「お義母さん、おひさしぶりです」つって。
母親は、「元気だった?疲れたべ?」つって。
「笑顔100点の姑」の設定で迎え、
うぷぷ、あぱぱ、おほほと話しこむ。

そうこうしているうちに、いや、そんなんお構いなしに

「孫が宝物だ!文句あっかジジイ」という設定となった
うちの親父が、孫を抱きしめ恍惚としているのである。

そう。

人は、いろんな設定の自分に変態し、
いろんな設定の中を生きているのだ。

実家のお風呂にアゴまで浸かりながら、ふと考えた。

そもそも、なぜ俺は、秋田に生まれたのだろう。
なぜ、この家族に生まれたのだろう。
どんな意味があって、こうして生きているのだろう。

ついでに、なぜ鼻毛に白髪がまざるのだろう。

結局、自分のたましい以外は、すべて借り物で。(身体も、生まれた場所も、環境も)
神様か宇宙の摂理かなんか知らんけど、この世に生まれるときに
誰かが、何者かによって、

「はい、というわけでございまして、アナタはこういう設定で
生きてもらいますさかいに〜!」

ガラガラ、ポンッ!

つって。

有無を言わさず、
この世に放りだされたのではなかろうか?
結局、人生なんてものは、かなり適当な誰かの「設定」で。

なのに、そんな事情を知らないもんだから、人は、人々は、
なんか、なんとなく「生きること」に違和感みたいなものを感じて

「人生とは?自分とは?」
ってことになる。

でも、それ「設定」なわけで、抗ってもしょうがなくない?
よくなくなくなくない?SAY YEAH!である。

つか。
まるっと設定を飲み込んで生きる。
あるいは、少しだけやり易いようにカスタマイズする程度でいいのではないか?
そんな頑張らなくても。そんな何者かにならなくても。

結局、お金持ちじゃなくても、とりわけ才能がなくても、
ジャニーズに入れるような顔面じゃなくても。

いま、このとき、この設定の人生でも、それなりに楽しむことはできるはずで、
設定された人生の中でも、じつは数えきれない数の自分を設定することができる。

なまはげの設定のおっさんが二人。

なまはげの設定に夢中になっているとき、
まぎれもなく、おっさん二人は、「なまはげ」を生きていた。

そんなことを考えて実家のお風呂に浸かっていたら

ゆでダコになっていた。

よく見ると、お湯は42度。

「設定」温度を間違えたようである。

ぐぴぴ。