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NO.1 新宿・大番組屋敷跡の細道

No.1 新宿・大番組屋敷跡の細道
探索の始まり、きっかけの「細道」
新宿区大京町
長さ およそ100メートル
最狭幅 60センチメートル
歴史度:★★★★
狭隘度:★★★★
魅力度:★★★
私が細道探索の魅力にとりつかれたきっかけとなった記念すべき(笑)道。このあたりは江戸時代は「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる江戸城警護の旗本・御家人たちの屋敷が並んでいた。なので元の町名は「大番町」だったが、隣の「右京町」と合併して「大京町」となった。安易だ。
この地域は江戸時代、西から攻めてくると想定された敵に対し、多くの屋敷を南北に連ねることで守りを固めた。道は南北方向にしか通らず、東西の行き来は大変な遠回りが必要で面倒だった。
私は外苑西通りに面したマンションに10年以上前に転居し、近所の小さな食品スーパーに通っていたのだが、この江戸の町割りの名残で、しばらく遠回りしながら外苑西通りから一本東にある通り沿いの店に通っていた。
ところがである。
ある日、そのスーパーの脇に細い路地が口を開けているのに気づいた。「そういえば西側にも小さな行き止まりの路地があったな。待てよ・・・」
西側に戻って行き止まりだとばかり思っていた路地の奥まで行ってみると、なんということだろう、右側に人一人がようやく通れる隙間があるではないか! しかし地面はきちんと舗装され、明らかに道だ。そのクランクは数メートルでまた壁にぶち当たるが、左には細い路地が続き、くだんのスーパー脇に出た。

1:西から見た細道。奥は行き止まりに見えるが・・・
こんな道が東京にもあるんだ、と思った。
かつてストックホルムで、高い石壁に挟まれた「世界一細い路地」というのを歩いたことがある。しかし細さだけなら決してここも負けていない。

2:「1」で奥に見えた赤い壁が左に。妙に狭まった道の最狭隘部に丸い石がある。何かのしるしか?
幕末の地図を見ると、西の入口は「本多」と「福王」という武家屋敷の境界のようだ。その敷地境にいつしか道が開けたのだろう。まっすぐでないのは、武家屋敷が道の両側から短冊状に造られていたが、必ずしもその境界が一直線でなかったためだろう。

3:奥には電柱も消火器もあり、公道なのだろう
この道を知って以来、街歩きのたびに細い路地に目が行くようになった。細い道を歩くとわくわくドキドキする。人と出会おうものなら心臓が「ドクン」と音を立てる。そんな感覚に病みつきになり、現在に至るのである。

4:そして左へ折れるとその先には車道が見える。
■細道を実際に散歩した動画です。
細道とは
ここで紹介する細道は、私・黒田涼の独断で選んだものだが、おおまかな定義は頭にある。
まず、表通りから見えにくく、歩く楽しみと驚きのある狭い道が条件。
自動車は通行できないが、公道もしくは近隣の生活道路として機能していること。
歴史が古く、曲がりくねってアップダウンがあればなおよい。
■著者紹介
黒田 涼(くろだ・りょう)
- 作家・江戸歩き案内人
- 大手新聞社にて記者を16年務めるなど編集関係の仕事に携わったのち、2011年に作家として独立。現代の東京に残る江戸の痕跡を探し出すおもしろさに目覚め、江戸歩き案内人として各種ガイドツアー講師などの活動も行っている。江戸と言われる範囲をのべ2000キロ歩いて探索。江戸の街の構造、江戸城はもちろん、大名屋敷、寺社、街の変遷などに詳しい。
- 各種講座や講演講師、NHKはじめテレビ・ラジオ、新聞、雑誌などの媒体露出多数。「江戸城天守を再建する会」参事 専門委員。
■著書
※各書籍名はAmazon.co.jpへリンクされています
- 「東京名所 今昔ものがたり」(祥伝社黄金文庫) 2013年 現代東京の名所の土地が、どのような変遷をしたか、およそ50か所を案内
- 「江戸の神社・お寺を歩く(城東編・城西編)」(祥伝社新書) 2012年 江戸から続く東京の寺社1600を案内
- 「江戸の大名屋敷を歩く」(祥伝社新書) 2011年 東京に残る大名屋敷の痕跡を歩いて案内
- 「江戸城を歩く」(祥伝社新書) 2009年 東京に残る江戸城の跡を歩いて案内
■講師歴
- 「江戸城天守を再建する会」江戸ウオーク講師 2010年〜
- 雑誌「いきいき」江戸ウオーク講師 2010年〜
- 淑徳大学公開講座講師 2010年〜
- 新宿歴史博物館講演 2011年、2012年
- 千代田区シンポジウムパネリスト 2012年
- 三越 日本橋街大學講師 2014年〜
■ブログ
http://ameblo.jp/edojyo/
■フェイスブック
http://www.facebook.com/ryo.kuroda.96
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