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No.12 四谷・鮫が橋の細道

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四谷・鮫が橋の細道

No.12 四谷・鮫が橋の細道
川筋が花の道に
長さ 620メートル  
最狭幅 1メートル  
歴史度 ★★★       
狭隘度 ★★★       
魅力度 ★★★★   

 四ッ谷駅から新宿に向かう甲州街道の南側には、四谷南寺町という江戸時代からの寺院の密集地帯がある。中でも戒行寺坂に沿った通りは、お寺の隣がまたお寺というほど集まっている。その中ほどから南に下る闇坂(くらやみざか)が今回のスタート地点だ。なんともおどろおどろしい名前だが、江戸には結構ある。木が茂って暗い坂はだいだいこのような名前で呼ばれており、ここも両側の松巌寺と永心寺の木が鬱蒼としていたので、このような名前がついたという。

今回のスタート地点、闇坂(くらやみざか)


今回のスタート地点、闇坂(くらやみざか)

 坂を下ると若葉公園という公園がある。谷底のような場所だが、関東大震災前まではここに鮫ヶ橋小学校があった。車がやっと通れるぐらいの道が左へ向かっているのでそちらへ行く。するとすぐに右に入る路地がある。猫がにらみつけてくるかもしえないが、構わず進んでいくと左に細い道がえんえんと続く。もうここからは車は入れない。

若葉公園


若葉公園

細道に睨みを利かすネコ


細道に睨みを利かすネコ

表に置かれた植物がさらに道を狭くする


表に置かれた植物がさらに道を狭くする

 若葉公園からの車道は江戸時代からある道で、路地を入った道はおそらく住宅や田の裏の細い川だったのだろう。さきほどの若葉公園あたりが谷の源頭だ。今は2階建てのさほど広くない住宅が両側にずらっと並ぶ。

昔は細い川だったであろう路地


昔は細い川だったであろう路地

 この土地には、今からは想像もつかないが、明治に入ると多くの貧しい人たちが集まり、「東京の三大貧民窟」とも言われていた(日本の下層社会、岩波文庫)。付近には、軍などから出る残飯を売る残飯屋などというものがあり、鮫ヶ橋小学校に通う生徒のうち、四分の一が残飯を主食としていた、という時代もあった。

 人がすれ違うのがやっとのような道を歩くとまたすぐに車道に出るが、向こう側に細道が続いている。そちらへ入ると、右奥は崖のようになり、マンションがそびえている。江戸時代はこの上は大名屋敷で、明治になっても出雲松平家のお屋敷があった。昔は谷底はじめじめとして健康にはあまりよろしくなく、住むところに身分差がはっきり現れていた。

崖の上にそびえ立つマンション


崖の上にそびえ立つマンション

 道はクネクネと続き、その形はスラム時代から変わらないかのようだ。途中には個人宅のお稲荷さんのようなものもある。両側の建物は2階建てなので、やや日当たりが悪く暗い印象だ。

 ところがである。

 少し行くとやや印象が変わる。道幅が少し広くなるのと同時に、両側の家の植木鉢が所狭しと並び出すのだ。美しい花を咲かせるものや低木、盆栽など種類は様々。居住者ぐらいしかふだんは人通りがないだろうから、ちょっとしたガーデンストリートと化している。さすがに冬はやや淋しいが、春先は実ににぎやかだ。

ガーデンストリートは細道あるある


ガーデンストリートは細道あるある

 立派なコンクリート土台の高い物干し台などもある。道路の中に土台があり、これは公のものなのか不思議に思う。その物干し台にも、カラフルな手作り風車のようなものがついていたりする。庭状態である。

 行き止まりの手前で左に折れると右には大きな建設中の建物。これは二葉南元保育園の建て替え工事だ。この保育園にはたいへんな由緒があり、もともとは日本で最初にできた私立幼稚園だった。

二葉南元保育園の建て替え工事


二葉南元保育園の建て替え工事

 創立は1900年(明治33年)。華族女学校付属幼稚園に勤務していた野口幽香(ゆか)と森島美根(みね)が、貧しい子供たちにも保育の手をさしのべたいと麹町に開園したのが始まりだ。1906年に皇室用地だった現在地を借りて移転し、鮫ヶ橋のスラム街の子供たちを引き受けるようになった。「幼稚園」の名ながら、実質的には今の児童福祉施設、保育園と言っていい。由緒ある保育園であるため皇族の支援も多く、故・高松宮妃殿下が二葉保育園後援会の会長だった時期もあった。

 保育園の先はすぐに中央線のガードになる。くぐって左手に大きなみなみもと公園があるが、入口脇に少し木が茂った一角がある。もはや自動車が行き交う道端だが、訪れてみると、「鮫ヶ橋せきとめ神」という祠がある。

鮫ヶ橋せきとめ神


鮫ヶ橋せきとめ神

 江戸時代、先の道を流れていたであろう川は、中央線ガードあたりで四谷三丁目付近からの川と合わさって、今は赤坂御所となった紀州徳川家の上屋敷内に流れ込んでいた。川は屋敷内の池の水源となり、流れ出た先は赤坂見附から溜池の水源となって、最後は汐留川として東京湾の注ぎ込んでいた。

 屋敷内に流れ込む手前で川を渡る橋があり、それを鮫ヶ橋といい、これがのちに一帯の地名となった。「せきとめ神」の由緒ははっきりしないが、江戸の頃からこの橋の際になにがしかの祠があり、それを引き継いだものだろう。昭和の初め頃にははっきりした記録がある。今は道路拡張で橋のあった場所から120メートルほど移っている。

 「せきとめ」というのは、川の水を田に引き入れるための堰がこの場所にあり、のちに咳で悩む人が祈ったところ、治ったとの言い伝えもあり、「せきとめ神」と呼ぶようになったという。

 だじゃれから生まれたような神様だが、今でも花が供えられていたりする。地域の大事な神様に会える細道である。

■細道を実際に散歩した動画です。
※黒田さんのナレーション付き!

細道とは
 ここで紹介する細道は、私・黒田涼の独断で選んだものだが、おおまかな定義は頭にある。
まず、表通りから見えにくく、歩く楽しみと驚きのある狭い道が条件。
自動車は通行できないが、公道もしくは近隣の生活道路として機能していること。
歴史が古く、曲がりくねってアップダウンがあればなおよい。

■著者紹介
黒田 涼(くろだ・りょう)

  • 作家・江戸歩き案内人
  • 大手新聞社にて記者を16年務めるなど編集関係の仕事に携わったのち、2011年に作家として独立。現代の東京に残る江戸の痕跡を探し出すおもしろさに目覚め、江戸歩き案内人として各種ガイドツアー講師などの活動も行っている。江戸と言われる範囲をのべ2000キロ歩いて探索。江戸の街の構造、江戸城はもちろん、大名屋敷、寺社、街の変遷などに詳しい。
  • 各種講座や講演講師、NHKはじめテレビ・ラジオ、新聞、雑誌などの媒体露出多数。「江戸城天守を再建する会」参事 専門委員。

■著書
※各書籍名はAmazon.co.jpへリンクされています

■講師歴

  • 「江戸城天守を再建する会」江戸ウオーク講師 2010年〜
  • 雑誌「いきいき」江戸ウオーク講師 2010年〜
  • 淑徳大学公開講座講師 2010年〜
  • 新宿歴史博物館講演 2011年、2012年
  • 千代田区シンポジウムパネリスト 2012年
  • 三越 日本橋街大學講師 2014年〜

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